塞翁が馬 | 人生では吉が凶に転ずる、禍が福に転じたりして、全く必死予想がつかない。何が幸福になるが、何が不幸になるかは、簡単には大勢に決めがたい。禍福は糾える縄のごとし。 |
無用の用 | 役に立たないとされているものが、かえって大切な役をしたり、取りえのないものが意味をもったりすることが、ままあるのである。 世間の役に立つことのみを重んずる実用主義や功利主義に対しての痛烈なアンチ・テーゼとなりうる言葉である。 |
春は枝頭に在って 已に十分 |
真理や幸福は、いくら遠くまで探し求めても、手にいられるものではない。 それよりもむしろ、身近なところにこそ存在するものだ。 |
日計すれば足らず 歳計すれば余りあり |
目先の利得はなくとも、長い期間では利益がある。 |
寧ろ鶏口となるも 牛後となるなかれ |
規模や局面の大きいところで人の支配を受けるよりも、小さなところでも自分で取り仕切るほうが良い。 |
逝く者は斯くの如きか 昼夜を舎かず |
孔子が、とある川のほとりに立って、流れゆく川の水を眺めながら、過ぎゆくものはすべて川の流れの如きものであろうか。昼も夜も止まることなく流れてゆく。『人の生命もこの世界の一切の事象も、みな時々刻々、流れ、流れて、止まるところを知らない、』と詠嘆をこめてめて発したことばである。このことばは、物みなが流れ、推移してゆくことにたいする孔子の悲観を示したものだとされ、孔子の「川上の嘆」ともよばれている。 |
風樹の嘆 | 「風樹の嘆」とは、親に孝養をつくそうと思い立ったときには、すでに親が死んでいて、孝養をつくすことができない嘆きをいう。「風木の嘆」「風樹の悲しみ」ともいう。 |
脚力尽くる時 山更に好し |
まっしぐら奔けているときは、人生の素晴らしさはなかなか分からないものだが、脚力も尽き果て、人生も残り少なくなってくると、その素晴らしさが一層よくよくわかる。 |
亢龍、悔あり | 高位に登り、成功おさめても、謙退を忘れ驕慢に振るまっていると、過ちを生じて、転落の憂目にあうことをさとしたものである。わが国にも「倣れる者は久しからず」という諺がある。 |
狡兎死して 艮狗烹らる |
狡兎は、敏捷でずるがしこいうさぎ。艮狗は、立派な犬、猟犬。すばしっこい兎が死ぬとすぐれた猟犬も用ずみになって烹て食われるという意から、敵国が滅びてしまうと、そのために力をつくした功臣も、不要になって殺されてしまうこと、また、功績のあった人も事が済んで不用になると、排除されてしまうことのたとえとしてもちいられている。 |
ー将功成って 万骨枯る |
一人の将軍が輝かしい戦功を立てるには、そのかげにしかばねを戦場にさらす多くの兵士のいたましい犠牲があるという意から、上に立つ者が功名功績をひとりじめにするのを怒っていうときにもちいる。 |
影を畏れて走る | 自分の影をおそれ、自分の足あとをいやがって逃げだし男が、走れば走るほど、影がぴったりとくつついてくるので、懸命に走ったが、ついに力つきて死んでしまったという、愚かな男の話から生まれた成語である。 なぜ、人間はこのように、影をおそれて疾走するのであろうか。少しでも気をゆるめて立ちどまると、たちまち敗北者の側にまわらねばならないので、それを恐れるのであろうか。また、ちょっとでも立ちどまると、人生の基底にひろがる虚無の深淵をのぞきこむような、いい知れぬ寂寥、不安などに襲われるからであろうか。 しかし、人生は果たして、そのようにやみくもに突?走り、無我夢中に生きることだけが人生であろうか。みずから求めて燃えつきるような人生だけが、人生であろうか。人生にたいする視野を広くすれば、影を憩わす悠然たる生き方も、一方に存在するのではなかろうか。 |
瓜田に履を納れず 李下に冠を正さず |
瓜田とは瓜を作っている田んぼ、李下とは李(スモモ)の実のなっている樹の下であるが、それらの場所では履をふみ入れたり(あるいは履をはきかえたり)冠をかぶりなおしたりせぬよう注意せよ、なぜなら、それらを盗もうとしていると疑われるからであるというのである。 とにかく、君子たるものは、「未然に防ぎ、嫌疑の間に処らぬ」ようにし、清廉潔白な人生を送るようにつとめることが大切であろう。疑惑やスキャンダルも、火のない所に煙は立たぬ。つねに「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さぬ」よう心がけていれば、人から疑われることはないのである。 |
琴瑟相和す | 琴は小さな琴、瑟は大きな琴で、これらを合秦すると、音がよく調和することから「琴瑟相和す」とは夫婦仲がとてもよいことにたとえる。 |
五斗米の為に 腰を折らず |
有名な隠逸詩人の陶淵明が、江西省の知事であったとき、微禄のために身を屈して上役を奉迎するのをいさぎよしとせず、決然として辞職したときに発したことばといわれ、以来、わずかな俸給のために節を屈して職に就いたり、人に憐れみを請うたりしない気節、気骨をあらわす成語としてもちいられている。 |
渇しても 盗泉の水を飲まず |
いかに困窮しても、不義不正には近づかないという意味で、古くからもちいられていることはまちがいない。 |
歳寒くして 松柏の凋むに 後るるを知る |
孔子がいった、「冬の寒い時節になってはじめて、松・柏が緑の葉を青々と保って、力強く生きていることがわかる」、と。すなわち、危難・難苦の中においでこそ、その人の真価や価値がはっきりわかるというのである。 |
解語の花 | 花と美人とは、この世におけるうるわしきものの代表である。昔から美人はよく花にたとえられてきた。「解語の花」とは「物いう花」「言葉をしゃべれる花」の意で、美人のことをいう。 |
佳人薄命 | 人間には美しいままに滅びゆくものを愛惜する感情がある。われわれは花や美人にたいしとき、とりわけそのような思いにかられる。紅顔薄命。わが国では今日、「佳人」とか「紅顔」とかいう語がいささか古風に聞こえるからか、「美人薄命」ということばがよくもちいられている。「薄命」というと、日本ではどちらかというと短命を意味するようだが、中国では短命と不幸せとの両義を含む。 |
糟糠の妻は 堂より下さず |
「糟糠」と は酒のかすと米ぬかのことで、粗末な食べ物をいう。貧しい時代から連れそって、粗食を食べながら、苦労を共にしてきた妻は、夫がのちに出世しても、(表座敷)から下におろさぬように大事にし、決して見捨てないという意である。いかなる場合においても、苦労をかけた者をいたわり、見捨てないという心がけは、人間として尊い感情であることはいうまでもない。 |
月下氷人 | 「月下氷人」ということばをはじめて聞いた人はどんなイメージを描くだううか。青白い月光の下にたたずむ水の彫像のような人を思うだろうか。じつは、そんな冷たい人ではなく、男女の仲をとりもつ人つまり結婚の媒酌人、仲人のことである。 ただ、「月下氷人」は、結婚にまつわる故事をもった二つの成語、すなわち「月下老人」(月老・月下老)と「氷人」〈氷上人・氷翁〉とが結合して生まれたことばで、おそらくは和製成語であろう。 だから中国では、仲人の代名詞として「月下氷人」という語はほとんどもちいず、それぞれ別々にもちいている。そのうちでもとくに一般大衆には、「月下老人」が多くもちいられているが、これはおそらく故事がおもしろく、またなんとなくも老人のほうが仲人としては温かみが感ぜられるからであろう。 |
濫吹:らんすい | 「濫吹」みだりに吹奏すること。「濫吹」とは実力のない者が、実力のあるかのように装うこと、資格・才能がないのに、不相応な地位に守ることをいうのである。 |
怨みに報ゆるに 徳を以てす |
これは、人からひどい仕打ちをされた場合でも、恨みで報いないで恩徳で報いるという意味である。 |
呉越同舟 | 呉の人と越の人とはたがいに憎みあう仲であるが、同じ舟に乗って川を渡っているとき大風にあって舟がくつがえりそうになったら、彼らはひごろの怨みも忘れて、左右の手のように助け合うものである。孫子によれば、たがいに反目しあっている者でも、危難にあって、利害が一致したときには、心を一つにして必死に事にあたる。兵隊を動かす場合にも、このような状況(死地)にもってゆくことが大切であるというのである。 |
敬遠 敬してこれを遠ざく |
「敬遠」という語は、表面はうやまう様子をして、じつはうとんじ遠ざけて親しまないことをいう。鬼神とは、神仏、神霊などをいうが、孔子は超自然的なものの存在を認め、これをいちおう崇敬はするけれども、これに媚びへつらったり、盲信したりせずに、「之を敬して遠ざく」すなわち一定の距離を保って接する、それが知者としてのあるべき態度であるというのである。 |
四海の内 皆兄弟なり |
昔、中国の四境は、海で囲まれていると考えられていたので、四海の内とはその内、つまり天下、今でいう世界のことである。世界中の人々はすべて兄弟のように親しく、助けあって暮らすべきであるとの意。 |
三顧の礼 | 目上の人が、ある人に仕事を引きうけてもらうために、何度も礼儀をつくして頼むことを、「三顧の礼」をつくすという。要職への就任を人に依頼するときなどに、よくもちいられる。 |
伯牙絶絃 | 「士は己れを知る者のために死し、女は己れを喜ぶ者のために容くる」ということばがある。士は自分を認めてくれた者のために一身を投げだすことをいとわないというのである。「伯牙絶絃」は、無二の親友や真の友を失ったときの悲痛をあらわす成語としてもちいられてきた。二千数百年の歳月をへた今もなお、この美しい友情物語は、友情にかんする多くの故事成語の中でも特異な光芒を放って、われわれの心を打つものがある。 |
刎頚の交わり | 首を斬られても悔いないほどの固い友情で結ばれた交際をいう。 |
知者は水を楽しみ 仁者は山を楽しむ |
知者は世の中に機敏に対処するので、流れゆく水を好み、仁者は天命に安んじて泰然自若としているので、動かない山を好む。知者は動き、仁者は静かである。知者は人生を楽しみ、仁者は長生きをする。 |
一葉落ちて 天下の秋を知る |
物事の衰亡没落を予知するたとえとしてもちいる。 |
滄海変じて 桑田と為る |
滄海とは、おおうみ、あおうなばら。それが桑畑に変わることから、世の中の移りかわりの激しいこと、巨大な変遷のあることをいう。 |
清風明月は 買うを用いず |
清らかな風や明るい月は、お金を出す必要がない、すなわち、自然美を観賞するにはお金はいらない、貧乏でも心さえあれば、いくらでもこれを楽しみ享受することができるという意味である。 |