故 事 成 語(続き)           

桃李言わぎれども
下自ら蹊を成す
 桃や李は、花が美しく、また実もおいしいので、招かなくても人が集まり、その下にはいつしか小道ができる。そのように、人となりや行為が高尚であれば、みずから宣伝しなくても、他人から必ず尊敬され、その徳に心服した人たちがおのずと慕いよってくるという意である。
十年一剣を磨く  十年の間、一ふりの剣を磨いてきたが、霜のように光るこの刃の切れあじを、まだ試したことはない。これを君に贈るが、不平のやからはこの剣で遠慮なく誅札殺してくれという意味である。剣を磨き兵を練って、復讐をはかる意味にとられるかもしれない。しかし決してそのような意味に限定されるわけではなく、技術・学問など何事であれ、その修得錬磨に、長い間、専心努力することが必要。
臥薪嘗胆  もともと復讐のために身を苦しめ、心を励ますことをいったものである。目的を遂げるために発憤努力したり、成功を期して辛苦を重ねたり、向上を求めて苦しい試練を自分に課したりする意で用いられる。
老いの将に至らん
とするを知らざる
 年老いても精神の輝きを失わず、人生に情熱をもつてたち向かっていくとの意。
老驥伏櫪、
志、千里に在り
 年老いた名馬は、世にもちいられず厩につながれていても、なお千里の遠きをかけめぐることを思うことから、英雄・俊傑の老いてもなお、志を高くもって英気の衰えないこと。
仁に当至りては
譲らず
 「仁」というのは、仁徳・仁道・仁愛・仁義などの仁で、孔子の唱えた儒教で最も重要な徳目の一つであるが、その仁を行うにあたっては「師」、つまり恩師や先生にたいしても、決して遠慮するなという意味である。
王侯将相
寧くんぞ種あらんや
 王侯将相とは、帝王・諸侯・将軍宰相をいう。それらになるのに、決まった家系血統があるわけではない。実力があれば誰でもなれるのだ、という意。
断じて敢行すれば
鬼神も之を避く
 小事にこだわって大事を忘れるならば、のちに必ず災難があり、狐疑してためらうならば、のちに必ず悔いを残すことになる。だが、断じて敢行すれば、鬼神もこれを避けて通し、必ず成功をおさめる。どうかこれを遂行なさってください、という意である。
優游迫らず  物事にこせこせせず、人生をゆったりと落ちついて生きることをよしとする美学。「悠悠緩緩」「泰然自若」
尾を泥中に曳く  亀は、殺されて亀卜の用に立てられて尊ばれるよりも、泥田の中で尾を引きずってはいまわりながらも、自由にのびのびと生きるほうを望むということから、仕官して拘束されるよりも、貧しくとも自分の性分のままに気楽に暮らすことをいうのである。
無絃の琴  陶淵明は音楽がわからなかったが、絃のない一張の琴をもっていて、酒を飲んでいい気持になると、いつもこれを爪弾くまねをして、自分の思いをこれに寄せたというのである。世の中には、「無絃の琴」ばかりではなく、無釣の釣魚、無管の笛、無石の碁、無筆の絵、無酌の酒など、それ自体を目的としないで、心の中で楽しむやり方も、いわゆる趣味としてあっていいのではなかろうか。
坐して百城を擁す  高位高官になるよりも、万巻の書物を蔵して、それに囲まれて生きる生き方をよしとする価値観が含まれ、書物の趣味に生きる者の姿がしのばれる。出世競争や金もうけにあまり興味のない者にとっては、書物に囲まれた自分の世界こそ、いかなる世俗的価値にもまさる王国である。
大器晩成  鐘や鼎のような大きな器物は、はやく作りあげることができないように、大人物は早くから才能をあらわさないけれども、時間をかけて実力を蓄えていって、やがて大成することをいう。若いうちに出世してお役に立っても、立派な仕事はできないものだ。たとえ、どんなに聡明な生まれつきであっても、若いときは器量も成熟していないし、他人も十分には受け入れないからである。五十歳ごろから、ゆっくりと仕上げるのがよい。それまでは、人々の目に出世が遅いと思われるくらいのほうが、立派な仕事をするのである。
馬耳東風  人の忠告や批評をどこ吹く風と聞きながし、全然心を動かさないことをいう。
我れは我が素を行う  環境に左右されたり、人に影響されたりしないで、わが素、すなわち自分の素志、志願を貫くことをいう。
楊朱、岐に泣く  楊朱が八方に通じる分かれ道に立って、足のあげ方しだいで、どちらにでも行けるのを見て、悲嘆してひどく泣いたことをいう。人生の岐路に遭遇し、いずれかの道を選ばなければならぬときの号泣したくなるような苦しさ、哀しさのことである。
青雲の志  功名を立てようとする志、立身出世しようとする希望いう。
杞憂  無用の心配、取り越し苦労をすることをいう。